坂本城発掘調査:現地説明会

約10か月放置したことなどなかったかのように始めますが、見かけた人もそれなりに多かったであろうこのニュース。多くの城マニアと同様、これは行かねばということで私もご多分に漏れず参加した次第。

何年か前に麒麟が来ていましたが、ドラマ中で坂本城が出ていたかどうかすっかり忘れてしまいました。まあ、番組後の○○紀行みたいなのではさすがに出ていたとは思います。「明智光秀の居城」「遺構が琵琶湖の底にある石垣のみ」「ルイス=フロイスがベタ褒め」あたりまでは比較的有名な話でしょうか。

今回のニュースは普段城に対して興味のない人たちの耳目を集めたようですが、マニアにとってもそのバリューの大きさはなんら変わることがないどころかむしろより大きく、私の三連休の予定は一瞬にして塗り替えられたのでした。実はこの連休、遠征の予定を立てようとしたもののうまく組めず断念していたのですが、まさかそれが功を奏すことになるとは。

 

2月10日土曜日。整理券配布開始の1時間前に到着したところ既に長蛇の列。正確にはわかりませんでしたが、その時点で少なくとも100人以上は並んでおりました。配布開始の頃にはその3倍くらいにはなっていたと思うので、4~500人が並んでいたことになるのではないかと。きっと日曜日はもっと多かったことでしょう。

見つかった石垣の一部

今回見つかったのは城域のもっとも外側である外郭である三の丸の石垣と、その外側の(おそらく)水堀跡。そして堀と石垣の内側に礎石建物跡、井戸など。

本丸でも二の丸でもなく三の丸と推定された理由は、本丸推定値と比べて瓦の出土が少なかったからなのだそうです。瓦葺の建物が本丸く比べて少なかったであろう、家臣の屋敷があった区域と推定されるということです。

当日配布された説明会資料より

図の青線部が今回の場所です。

もともと三の丸と推定されていたエリアではあったようなのですが、数年前にもう少し西側(本丸から見ると外側)を調査した際には城郭遺構は出ず、町屋の跡とみられるものが出てきたそうです。この時点で、従来坂本城の想定範囲と考えられてきたオレンジの領域は実はもっと小さいのではないかと推察されていたらしいのですが、今回の発見でそれが裏付けられたというわけです。こういう、他の調査での結果から推測された自称が別の調査で証明される、てのはなんか個人的にとてもワクワクしますね。

そして、数年前には発見できなかった城郭遺構が発見されたのはなんと昭和54年以来の45年ぶりと。いやいや凄いことです。

手前の石垣と奥の石垣が直交しています

今回見つかった石垣はいわゆる高石垣ではなく、高さ1m程度のもの。防御のための石垣ではなく、堀の岸壁相当という感じだとわかりやすいでしょうか。堀の幅は推定12mにも及ぶとのことで、石垣で防御する必要がなかったということでしょう。というか、坂本城ができた時期(1572年頃)ではまだ高石垣を作る技術はなかったと思いますが。

「正直やべえ」で一躍有名になった大津市職員さん。上司には言葉遣いがよろしくないと注意されたとか(本人よりフリ素宣言出てましたが一応加工)

担当職員さんも時間が許す限り見学者からの質問に答えていらっしゃいました。説明もわかりやすかったです。

今回の場所が外郭であるということは、遺構が残っているとするとさらに本丸寄りにしかない可能性が濃厚になったわけですが、まあまあ宅地化された地域ですので追加の調査は簡単ではないかもしれません。身勝手な想いではありますが、それでも続報を期待したいものです。

 

久々利城(可児市)

少し空いてしまいましたが、城攻め自体はちょいちょい行っております。今回は可児にある久々利城です。私自身としては再訪の場所になります。

現地案内版

車でのアクセスが容易で駐車場もあって降りてからすぐ城域で、かつ遺構もしっかり残りつつ整備もされてて案内板なども十分にあるなどたいへん見学しやすい。山城初心者にもおすすめ。

歴史は上図中にありますので割愛するけれども、一言で言うと信長の美濃侵攻に飲み込まれたこの地域の国衆の城、というところか。

 

桝形虎口

道路に面した登り口を2分も登るとすぐ入口となる桝形虎口がお出迎え。地元の方によりきちんと整備されているので、土塁もそれとわかるように形を保っているし草も刈られており非常にわかりやすい。奥に見える柵は当時を想像して建てたもので、

こうやって反対側に回るとどうやって敵を迎え撃ったかがとてもよくわかる。

 

全体的な縄張りとしてはそこまで複雑なものではなく、最下段を含め階段状に曲輪が4段並んでいるというもの。

「三の丸」より「本丸」を望む

ひとつ登った曲輪「三の丸(当時はこんな呼び名じゃなかったと思うが)」から上を望むとこんな感じ。引きで撮ってるのでわかりにくいけど、段差は数メートルはあり登るのには相当難儀しそうな切岸になっています。落ちたら無事では済まない高さ。

 

「本丸」からの眺め

最高所からの眺めはこんな感じで、方角としては西を警戒していたかなという感じ。ちなみに、反対の東へ行く道は土岐氏の本拠だったであろう土岐市中心部へ抜ける。決して比高の高い城ではないけれども、当時は前方の木は伐採されていたと思われるので、もう少しいい感じの眺望であっただろうと想像できる。

 

そして、以前に来た時には全く整備されていなくて途中で引き返した西側の居館区域へ続く道が今回できていたのでそっちにも突入。

二重堀切

通路になっている堀切を二つ越えると以前はなかった見学路。

この先は細長い土塁のような曲輪の上を辿り、最後は西側の東禅寺の方へ出る。居館跡部分の遺構(が、あるのかないのか不明だが)にはたぶん入れず。

 

ということで、初心者にも初心者以外にもおすすめの久々利城でした。写真にものぼりが多数写っていたと思いますが、地元の方の整備の熱の入りようがとても高くてとても見やすい山城になっています。整備するのもそう楽なことではないと思うけれど、そのおかげで我々は安全に見学できているわけで、本当に感謝の一言。ぜひ隣にある郷土歴史館にも足を運んでほしいと思います。

 

大高城発掘調査:現地説明会

タイトルの通り、2/18(土)に行われた説明会に行ってきました。前に行ったのいつだったかなと思ったら13年ぶりでした。月日が過ぎるのは早い…。

大高城では数年前からレーダー探査を、そして昨年1月から発掘調査を行っているのだそうです(知らなかった)。令和3年度実施分については残念ながらコロナ禍で現地説明会は行われず、Webサイト上でだけの報告になっていたようですね。

説明会資料(抜粋)

古い絵図によると、本丸(図のほぼ中央)を南側から反時計回りに囲むように横堀があったそうですが、現在は表面的にはその形跡はありません。前年の調査で堀の存在は確認されていたようですが、今年は範囲を広げて本丸部分も掘削したとのこと。

発掘範囲の二の丸部分

まず堀跡の部分。手前のカラーコーンのところまでが堀の幅で、およそ15mあるとのこと。結構な規模の堀です。時代ごとに何度かかけて埋められたようです。

横堀の断面

で、今年新たに掘った本丸部分。

本丸

ごらんのように、整地された層が見つかったとのこと。

堀の埋土からは戦国時代の陶器が出土するのに対して、この整地層および下の層からは14世紀後半~15世紀初頭の茶碗等が出たということで、築城時に作られた整地層ではないか、という可能性があるのだとか。また、なんなら弥生土器なんかも出土しているそうで、城ができるはるか昔からこの場所がなんらか使われていたかもしれないとのこと。桶狭間の戦いの時代にはこの大高城のすぐ近くまで海が来ていたということは周知の事実ですが、小高くなっているこの場所はもっと昔から陸地だったでしょうから、それなりの広さもありますし、生活の場所であったとしてもなんとなく納得がいきそうです。

 

うまいこと情報入手ができて、近くで都合がつけばなるべく行くようにはしているのですが、コロナ禍で説明会自体がほとんど行われない時期が続いていましたので、かなり久しぶりの現地説明会でした。やはりその場でないと聞けない説明があったり、タイミングがよければいろいろ質問できたりもするので、とても参考になるし楽しいものです。大高上に関して言うと、本丸を囲む横堀が復元されると、これだけの規模ですので個人的には激熱なのですが、まあそう都合よくはいかないか。

また行く機会があればこうして記事にしたいと思います。